The History of Science as Oxymoron: From Scientific Exceptionalism to Episcience

以下は、前回から参加させて頂いている「Isis, Focus読書会#9 科学史の未来」(https://www.facebook.com/events/488774157858750/)のレジュメです。
(なお、本ブログは自分がエンジニアだった時期にメモ帳代わりに作成したもので、レジュメを掲載する場所として適当ではありませんがご寛恕乞いたく存じます…)

Ken Alder, "The History of Science as Oxymoron: From Scientific Exceptionalism to Episcience," Isis, 104(1), 2013, pp. 88-101.
http://www.jstor.org/stable/10.1086/669889

筆者の Ken Adler は米ノースウェスタン大学歴史学部の教授。18世紀フランスと20世紀アメリカにおける科学史・科学技術史に関する著作がある。

本稿では「科学史」という研究領域の自己理解・自己定義の問題が論じられている。

「科学史」という分野名称は、アカデミア外部の人間や他分野の人間にとっては混乱のタネである。筆者によれば、これは「科学史」という用語が一種の撞着語法であること、つまり「科学」と「歴史」という互いに矛盾する用語が併記されていることに起因している。一般に「科学」は現代的な価値に基づき、過去の諸発見に対して最新の説明を与える企てとして考えられているが、それに対して「歴史」は現代的な関心にとらわれず独自の用語・方法で過去の事物を要約するものだと理解されているからである。

なぜ我々の自己描写はこれほど頻繁に人々を混乱させるのか?そもそも我々(科学史研究者)は一体何者なのか?

まず筆者は科学史研究者の置かれた外的状況の分析から開始する。1960年代のT.クーンの予想とは裏腹に、科学史は自律的な研究部門を持つことに関しては完全に失敗した。科学史家は歴史学部を始めとする大学の様々な部局で見出すことができる。これは1920〜1930年代にかけてほとんどすべての大学に専門部局が設置された美術史とは対照的である。しかし、様々な部門に研究者が分散することによって、科学史は知的な柔軟性を享受することができたと筆者は肯定的に評価している。また、とりわけ重要な点として、制度的な多様性によって科学史の研究が自己目的化せず、様々な歴史的目的を実現する「方法」(means)として作り変えられたことが強調されている。

制度的な安定性を得る代わりに、科学史の研究者達は「科学研究の内容とその文脈を接続するツール群」を作り上げてきた。これらは異なる部門に属する科学史研究者を互いに結び付けるだけでなく、より一般的な歴史学の問題の解決にも寄与するものだとされる。こうして筆者は歴史学一般と科学史の連続性を強調し、科学史を歴史学における例外として扱う「科学的例外主義」に反対を表明している。アメリカ近代史やホロコーストの歴史と同様に、科学の歴史もまた科学の枠内に留まらず同時代の知識形成の慣習と並行して研究されるべきだと筆者は主張する。

科学史の自己理解・自己定義に関する問題を整理した上で、科学史家の研究対象をより的確に表現する用語として、筆者は発生学の一分野である「エピジェネティクス」(epigenetics)をもじった「エピサイエンス」(episcience)という新語の導入を提案する。

遺伝子としてのDNA発見以降、発生学の分野ではDNA→RNA→タンパク質の順で情報が転写されるプロセス(セントラルドグマ)をベースとして研究が進められてきた。しかし、DNAメチル化やヒストン修飾など、ゲノム以外の細胞内環境が個体(とその子孫)の形質発現に大きな役割を果たすことが明らかになり、特に2000年代以降ゲノムと細胞内環境の複雑な相互作用を解明するための研究が活発に行われるようになった。「エピジェネティクス」は、こうした研究を従来の発生遺伝学の研究から区別するための用語として使用されている(用語自体は1942年にイギリスの生物学者C. H. Waddingtonによって初めて導入された)。

科学とエピサイエンスの関係は、発生学とエピジェネティクスの関係と同型であると筆者は説明する。つまり、エピジェネティクスが個体形質の発現に作用する細胞内環境を研究するのと同様に、エピサイエンスは特定の科学的知識や習慣が生成・伝播する「環境」(environment, milieu, Umgebung)を構成するものだとする。

エピサイエンスの名称の下で行われる具体的な研究については、現行の慣習から大きく逸脱するものではなく、それ故にエピサイエンスという用語自体も長い寿命は持ち得ないと筆者は説明する。エピジェネティクスという用語は伝統的研究に対する差異を強調するために利用され、研究分野としての自覚を促し多大な財政投資を呼び込むことに成功した。しかしいったん分子生物学者がエピジェネティクス的思考を自らの研究に取り込んでしまえば、エピジェネティクスが「遺伝」という概念に包括され、独立した用語としては風化することは予想がつく。それと同様に、筆者は用語としての「エピサイエンス」も「科学」という「遺伝」以上に弾性的かつ多義的な用語に早急に吸収されるべきであるとする。